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散歩で切り取る日常 カメラマン・布田直志
インタビュー後編

フリーランスカメラマンとして仙台で活動する布田直志さんは、「マスク」を着用したコロナ禍の家族の姿を写真に収めた作品群『いつもと違う日々』を手がけています。

なぜ、布田さんは人々の「日常」を撮るのでしょうか。インタビュー後編は、布田さんのライフワークでもある写真撮影のルーツを追います。

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カメラマン・布田直志さん



東京“散歩”の二年間

ー そもそも布田さんが写真に興味を持ったきっかけは?

父が会社の広報誌を作る仕事をしていて、東北を回って取材し、記事を作ったりしていました。そんな中でよく目にしていたのは、父の勤める会社の関連企業である東北電力の広報紙でした。写真は小野幹さん(岩手県出身の写真家。東北電力発行『家庭と電気』のちの「白い国の詩」の写真を担当する他、東北の自然や人々の暮らしを撮影)が担当していたんです。そんな様子から、子どもながらに文章を書いたり、写真を撮ったりすることが仕事になるんだなっていうのは見ていました。

ー 専門的に学び始めたのはいつ頃でしょうか。

高校を卒業するタイミングで、東京にある写真の専門学校に行くことにしました。高校の時も写真部にいましたが、本格的に写真を撮り始めたのは東京に行ってからですね。

奥さんはその当時からの付き合いだったので、結婚で多分仙台に戻ってくるだろうな、と思っていました。それまでの間、「2年くらい東京を散歩してくるね」と言って東京へ行きました。

ー 上京するタイミングで写真を学ぼうと思ったのは、やはりゆくゆくは写真が仕事になったらいいな、という想いからでしょうか。

それはありました。ありましたというか、“散歩”が好きなんですよ。写真を撮るために、歩きながら周りを見るというのが好きだった。散歩すると、何かを撮りたくなる時ってありますよね、スマホとかで。常にその状況に自分を置いておける仕事って良いなって。

一方で、はじめは写真を職業にしてはいけないなって思っていたんですよ。

ー 写真が趣味でもあるからでしょうか?

そうですね。それを生業にしちゃったらどうなんだろう?って。

僕が10〜20代前半の頃はバブルの終わりかけで、まだ広告業界が華やかだったんですよ。写真を撮るのは広告の仕事だったりしたんですよね。

自分自身も、在学中に大手出版社のスタジオでバイトをしていたし、就職もほぼそのスタジオに決まっていました。でも、卒業してからの生活の場としての東京はイメージできなかった。当時、私と一緒にスタジオで働いていた友人が亡くなったことや、仙台にいる彼女(奥さん)とも「東京で2年間散歩してくる」と伝えていたこともあったので、仙台に帰ってきちゃった感じです。

ー 専門学校での生活はいかがでしたか?

例えば、先生として、森山大道さん(大阪府出身の写真家。国内外で受賞多数。御年80歳の現在も現役で活動)とかがいたんですよ。写真作家として食べている人達ってこんな感じなんだっていうのは感じられました。

一方で、友達と一緒に車やバイクで日本のあちこちを回ったんですが、それが楽しくって。東京が拠点だと色々な所に行きやすいんですよ。そんな感じで週の半分はどこかに出かけていました。18〜20歳の頃でした。

ー 刺激的な東京にいらしたのに、車に乗って都外を回っていたんですね。

えぇ、山ばっかり行ってましたね(笑)。

ー 専門学校の友人はどんな方が多かったですか?

出版や広告関係に進んだ人が多かったですね。凄く忙しい世界なんで、自分がやるかっていわれたら、やらなかったかな(笑)。

20歳で仙台に戻ってきてからは、写真の現像屋さんに勤めました。仙台にある主に写真館の写真を扱う現像所なんですが、東北中のいろんな写真をやっている人たちのプロラボなので、凄く良い経験でした。土門拳さん(山形県出身の写真家。ポートレートの他、伝統文化材をも多く撮影した)のネガに触ることができたんですよ。「これはやばいな……。」って感じでした。


写真を撮る、郵便局員

ー ラボに一年間勤めた後、郵便局員になられたんですね。

親の意向もあって公務員試験を受けました。でも、この時も、「郵便局員の制服を着ていれば、人の家の敷居をまたいで写真撮れるな」って思ったんです。宮城県南の山沿いの局に配属され、7年間勤めました。

郵便局員の仕事って、どっぷりその土地に入り込み観察し続けることができるって気づいたんです。散歩と同じで“定点観測”なんですよね。毎日同じポストを巡って郵便物を配達するので、あぁ、あそこの家、花咲いてなかったのに咲いたなとか、この家の子、大きくなってあそこの家の子と付き合ってるんだな、とか(笑)。その土地の日々の変化を肌で感じることができる。

実際に写真も撮っていました。田舎の郵便局員なので、向こうも毎日こちらを見て認識しているんで、「写真撮るの?いいよ。でも何に使うの?」そう聞かれたらはぐらかしつつ(笑)、回っている途中で写真撮影して、後日、撮らせてくれた人にその写真をプレゼントしていました。

ー 郵便局員の格好をして、カメラを持って配達されていたって面白いですね。名物郵便屋さんだったのでは?

コンパクトカメラでしたけどね。新聞とかにも載っちゃったりして大変でした(笑)。

ー 写真がモノクロなのは、何かこだわりがあるんですか?

単純に仕上がりまで自分で管理できるからです。今と違ってパソコンのプリンターも普及していなかったたし、カラーだと最後のプリントを他人に委ねなければいけないのが嫌だった。

こういうのをずっと7年間撮り続けて家に配って回っていたら、話題になっちゃって。 ある家からは、葬式用の写真を撮ってくれって、黒い服着て門の前で待たれて困ったこともあったり(笑)。その他にも、養蚕をやっている家とか。そういう所で撮ることができるってそうない。当時の人達は集合写真の一部か葬式の写真しかないので、そういう人たちの日常を撮ってあげていたんです。


生きてきた証を映す




この方は、お茶の水女子大学出身のエリート。亡くなった旦那さんは東北学院大学で農業政策を教えていた方で、栗駒の文字という地域で藍染をしている千葉家(日本最古の染色技法である正藍冷染(しょうあいひやしぞめ)を伝承する一家。昭和30年、故・千葉あやの代に国の重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。現在は、宮城県重要無形文化財に指定)の研究をされている方でした。

そして写真の彼女もまた、その千葉家から藍を分けてもらったりしながら藍染をしていました。普通藍染をしている方々は織と染めは分業なのですが、この方は蚕を育て、糸を紡いで染め、織るまでを全部一人でやっていました。

そもそもなぜ自分がこの方を気になったかというと、公務員試験に受かって郵便局員になる前の空いた数ヶ月間、中国雲南州に滞在していたことがあります。

ジャーナリストで写真家の小林紀晴さんが、ルポ物の写真を発表されているのを見て、アジアに興味があったので、大阪から船に乗って中国へ行きました。ミャオ族の村に住んだ時に、地元の人々が藍染する様子を見ていたんです。

そんなことがあって、郵便局の配達中にこんな人がいて、気になって話をするようになりました。

実は、この方の最後を僕が看取っているんです。

あの日はまるで何かに呼ばれるように久しぶりにその人の家に行きました。すると、この方が家の裏で藍釜に頭打って出血して倒れているところで、それを助けたんです。

倒れながらに、「机の上にある写真を取ってきてくれ」って言われて、あぁ旦那さんの写真だなと思ったら、僕が撮った彼女自身の写真だった。

「何でこの写真なの?」と聞いたら、「あんたが撮ってくれたこの自分の写真が、私がここで生きて来た証明なんだよ」って。

結果的にその次の日に亡くなってしまいましたが、そういう印象深いエピソードが、撮った写真の分だけありますね。


写真撮影が招いた 心のもやもや

郵便局員として写真を撮って回っているうちに、お前は営業向きだなってことで、2〜3年目に配達担当から保険担当にさせられちゃって。

保険担当になったら、「いつも写真撮っている人でしょ。保険入ればいいのね」とか、「この前写真撮ってくれたからその御礼に入るね」みたいに、写真撮りながら保険の契約も取るみたいな感じになっちゃって。そんなつもりは毛頭ないのに、かなりの営業成績をあげたことで、鬱になってしまったんです。

保険担当だとそんなに荷物は要らないんで、赤い郵便バイクの箱の中にコーヒーのセット入れて、行ってきまーすって山の中に入っていった。そうして一日山の中でぼーっと過ごす日々でした。それでもコンスタントに営業は取れていましたが、本意じゃないっていうのがずっとあった。

ー 数年間、もやもやを抱えながら過ごしていたんですね。7年目で辞めたのはきっかけがあったんですか?

子どもが生まれるタイミングです。公務員だから育休あるじゃん。育休取ります、って言ったら、「そんなもの男性で取った奴見たことない」って言われて、「じゃあ辞めまーす」って、そのまま辞めちゃいました。それから今のフリーのカメラマンになった感じです。

ー 郵便局員として写真を撮り続けていらしたので、何だかユニークだけれど、ある意味カメラマンとして下積みをされた感じですね。

はい。初めての人とのコミュニケーションとか、営業なんて自分には不向きじゃなかったことでのコミュニケーションの取り方とか、勉強になったのかな。

ー 田舎の方だと特に警戒心が強い。懐に入るのは難しいですね。

それは、郵便局員の制服のおかげ(笑)。

ー フリーランスになられてからは、インタビュー前編で仰っていた、学校行事の撮影がメインでしょうか。

そうですね。前職の写真現像ラボ時代にもあった、学校行事の撮影がフリーランスでもやれそうだなと。

子どもが生まれる時、奥さんとの会話で、「俺、育児したい」というのは伝えていました。実家が託児をしているので、子どもがあふれている環境だったんです。

「夫婦共にフルタイムで仕事して金銭的余裕を得て、子どもは保育園に任せる。それって俺らの子どものためになるのかな?それなら片方の収入でやりくりできないかな?」と言うと、奥さんの返答は「育児をやるならやってみたらいい。私は今はまだ仕事を続けたい」でした。「育児の合間に仕事はやりたいから、カメラマンとしての仕事もはじめるね」ということで、そのスタイルになりました。

自分が子どもを育てはじめたのが今から16年前。今でこそ男性の家事参加を謳われているけれど、当時はまだまだ。児童館や公園に行っても、他のお母さん方の好奇な目は感じました。

ー 現在、6歳、10歳、16歳の男の子がいらっしゃいます。子育てはいかがですか?

楽しいですよ。それこそ子どもと散歩しながら写真を撮れる。


被写体との距離感

ー ここからは、フリーランスになられて布田さんが撮影されてきた作品について伺います。奥様と同棲されていた時の写真を展示した『マダワカラナイ』、興味深いです。





(公財)仙台市市民文化事業団主催の写真家の小岩勉さんのワークショップに参加した時、「モノクロ写ルンです」を使って写真を撮っていったものです。

当時、コンビニでもモノクロのコピー機が写真対応するようになったので、それで印刷した写真を手製本にしました。

写真は、当時奥さんと一緒に住んでいた築90年の古民家で撮ったものです。その時から古民家が好きで、荒町、宮町、東照宮辺りを見て回って一年以上かけて物件を探しました。

ー『マダワカラナイ』(don’t know yet. マダワカラナイ | Flickr)というタイトルにはどんな意味があるのでしょう?

パートナーって、一番近しくて知りたい相手ですよね。だけどやっぱりわからないよね、って意味です。





ー カメラを向けられてプライベートな姿をここまで見せられる奥様、すごい(笑)。

撮られることが日常になっていたので、ご飯を食べるように撮られていました。まさに素の状態ばかりですね。

ー 東日本大震災後の写真を収めたkindle版の写真集『陸前高田市消防団高田分団 震災から3か月後 (記憶の継承)』が、amazonからリリースされています。





陸前高田の消防団長が写真館をやっていて、震災前から通って手伝っていました。本震から三週間目でやっと電話がつながった時、奥さんと娘さんが亡くなったことを聞きました。すぐに手伝いますと伝えて、自分の家族は安全を確保しつつ仙台に残して陸前高田へ向かいました。

現地のボランティアセンターが、やっと市外者を受け入れ動き出すかどうかの時、docomoの電波が入るようになり、当時は陸前高田は報道以外、ほとんど現地の情報が流れてこなかったので、Twitterを使ってその時の状況を発信しはじめました。

すると、amazonのウィッシュリスト支援(欲しい物リストを使って被災地に必要な物資を届けるサポート)から連絡が来て、「陸前高田の消防団にいるなら、この支援が実現できそうなんだよね」って。欲しいものをサイトにあげたら、全国の人が買ってくれる。そのパイロット事業として消防団の方々と動きました。その結果、4億くらいの支援額になりました。

その途中にあった消防団での出来事をAmazonの支援記録としてkindleで製作しました。

ー 当時、被写体との距離感はどうだったのでしょう。

ピリピリした中にいました。消防団の方たちも捜索として見つからない家族を探しに津波浸水域に降りて行って、今日もいなかったと肩を落としながら屯所へ戻ってくるを繰り返す日々でした。

毎日のようにご遺体を担ぎ上げるんで、死臭が体につくんです。屯所に戻ってくると臭いを消すために消臭剤を使っていたのですが、未だにその香りを嗅ぐとあの頃を思い出してしまってだめだ、という方もいます。

ー カメラを向けることが、ものすごく難しい時期でしたよね。

消防団の分団長でもある写真館の手伝いとしても行っていたので、学校がはじまると店主に代わって自分が写真を撮らざるを得なかった。本震から3ヶ月後の防火訓練で、生き残った消防団員が本震後はじめて全員集まるというので記録写真を撮りました。消防団に対してカメラを向けたのはあの一度きりです。一時間もなかったと思います。その他にも、4月7日の最大余震の日の詰所の写真も収めています。

ーその様子が、kindle版に収められています。誰もが険しい顔をしていますね。


カメラで日常を切り取る理由

ー お子さんと一緒に散歩をしながらご近所の写真を撮られたりしているように、生活が見える、というのに惹かれるんでしょうか?

子育てをしている前提があってなかなか遠くに撮りに行くって出来ないので、身の回りに起こっていることを撮っている感じですね。

例えばこの写真。人が手入れをしている庭と放置されてしまった庭、その境ってどこからなんだろうねって思いながら、子ども達との散歩の中で撮っていきました。

水槽の中から雑草が生えてしまっている庭



ー 過程を撮っていたということは、頻繁に撮りに行っていた?

そうですね。三輪車に乗った子どもを撮っているふりして、庭を撮ったり、屋上が面白そうだったら、「何?気になる?行ってみたい?」って子どもが興味あるかのように聞きながら誘導して階段を登ったり(笑)。でも、子どもとの散歩の集大成は12歳までって決めています。中学にいくと部活が始まったり友達との時間が楽しかったりするし。

アパートの屋上






お子さんと一緒に訪れたカンボジア、タイの写真



ー 布田さんの軸はやはり、子育てや子どもなのですね。

子どもをきっかけに、大人が遊ぶという感じですね(笑)。

フリーランスになったタイミングで、NPO法人リブリッジが主宰していたギャラリー「Gallery Edit」(現在は閉所)の経営を手伝っていた時期がありました。そこでも子どもと遊びたいってことで、2005年に「笹舟を作る会」をはじめたんですね。リブリッチから離れてからも、「NPO法人笹舟」を自分で立ち上げて、震災前までは頻繁に活動していました。

ー 子どもは、被写体としても魅力的ですよね。

我が子の写真もずっと撮っています。よく言われるんですよ。「子どもの写真撮ってるよね、じゃあうちの子のも撮って」って。「撮るけど、でもさ、お父さんお母さんが撮る写真には敵わないよ」って。

ー写真としてきれいかどうかではないですよね。親しか分からないこともある。

はい、全然違いますね。学校行事の撮影もそうですが、作り込むというより、自分は自然体を撮るのが好きです。

郵便局員時代から写真の展示に興味はありますし、実際に展示もやっていますが、写真の見せ方や有り様は、それだけじゃないよなって思いがあった。

コロナ禍で取り組んでいる『いつもと違う日々』でも、周りの人の日常を撮ってその写真をプレゼントして、街にいつの間にか写真が溢れているって面白い。そういうのがいいなって思います。

掲載日 2021年1月22日 取材日 2020年9月





布田直志(ふだなおし):1973年仙台市生まれ。東京ビジュアルアーツ卒。2002年よりフリーランスカメラマンとして仙台で活動開始。http://www.fudanaoshi.com


企画・取材・構成 奥口文結(FOLK GLOCALWORKS)、濱田直樹(株式会社KUNK)

このインタビューは、「多様なメディアを活用した文化芸術創造支援事業」の助成事業実施者に文化芸術活動や新型コロナウイルス感染症の影響等について伺ったものです。

当日は、身体的距離確保やマスク着用などの新型コロナウイルス感染症対策を行いながら、取材を行いました。写真撮影時には、マスクを外して撮影している場合があります。